005-3_兵庫県/念願のほんこじさん虫干会に参加して来た!(1日)
朝9時30分。
さとりは梅田駅にいた。
これから阪神線に乗って、尼崎まで行くためである。
さとり「数珠丸様! 待ってて!!」
さとりとずずさまとは、切っても切れない縁がある。
大分に行ってた時。
ずずさま鍛刀キャンペーンが開催されたのだ。
ほぼほぼ、95%くらい、みんな一発で鍛刀された、そのキャンペーン。
さとりの本丸に、ずずさまは来なかった。。。
さとり「ががががーん!!!」
というわけで。
ずずさまは幻となって消え。
2018年のシステム変更で、鍛刀で出るメンバーがごっそり変わって。
おじいちゃんなどのレア刀が鍛刀でほいっと出るようになってからも。
さとり「あれ? いつのまにかずずさまいる?!」
いつの間にか、本丸に加わっていた。*1
幻のずずさまらしいエピソードを持っている。
数珠丸恒次とは?
平安末期から鎌倉前期の刀工で、御番鍛冶の一人である青江恒次の作。
享保名物帳・詳註刀剣名物帳にも紛失の経緯は記されておらず不明だが、久遠寺から行方知れずになる。
現在、数珠丸とされている刀剣は重要文化財に指定されている日本刀。
刃長83.7cm、反り3.0cm。鍛えは、小板目、乱れ映り立ち地沸つく。
佩表に「恒次」の銘が切られ、目釘孔一。
青江恒次とは作風を異にすることから佐藤貫一は、備前恒次の作ではないかとした。
享保名物帳によると数珠丸の拵えは、「光甫物数寄の拵、蓮華の紋にして、四分一すりはがし也」と記されているが、この太刀は別の拵えである。
公益財団法人日本美術刀剣保存などの近年の研究によると鎌倉後期、備前の左近将監恒次の作であると断定されている。日蓮が所持していたとされる太刀で、日蓮が甲州身延山へ入山したとき、護身用として信者から贈られたと伝えられ、柄に数珠を掛けていたことからこの名が付いたとされる。
日蓮没後は他の遺品とともに身延山久遠寺に保管されていたが、享保年間に行方不明となった。1920年(大正9年)ごろ、宮内省刀剣御用掛の杉原祥造が再発見した。
杉原の主張によると、ある華族の所蔵品の競売にかけられた物件の中から発見したとされる。
杉原は久遠寺に返納しようとしたが交渉がまとまらず、杉原邸の近所にある兵庫県尼崎市の本興寺に寄進され、現在も本興寺が所蔵している。
ウィキペディアさんより
というわけで。
本歌の方も、なかなかに訳ありなようですね。
この本興寺さんでは、年に一度、虫干会というお祭りのようなものがあり。
この虫干会で、数珠丸恒次と会える、というわけです。
整理券が配布されていました
実は、裏から入ってしまったらしく。
どこに並ぶのかわからずうろちょろしてしまいましたが。
1時間後の整理券をゲットし。
さらに、うろちょろしていると。
ボランティアのおじさんに声をかけられ。
あましんこと、尼崎信用金庫がやっている、尼信会館に誘導されました(笑)
この尼信会館、何かと思ったら、博物館だそうで。
尼崎城の古地図や、刀剣、さらに世界のコインの展示室などがありました。
特に。
刀は、鎌倉時代中期の備前畠田の刀匠、初代守家作の太刀であり。
これは重要文化財に指定されています。
さらに折り紙「本阿弥光温極書」も付属して展示してありました。*2
あと。
古地図の前で、一人で1時間くらいいました。
私は地図が好きなんだなあと、改めて思いました。
ずずさまはよくわからなかった。。。
昨今のブームにより、めっちゃ人がいるらしく。
ずずさまはストップウォッチャーによる、入れ替え制でした。
時間が短すぎて。。。
よくわかりませんでした。。。
(だめだなー)
多分、精神状態によるものだと思うのですが。
何人かでポジションどりすると、焦ってしまって、うまく鑑賞できない。
まあでも。
拵ではなく、袋が、寺っぽいなって思いました。
(袋。。。)
人が多い中、さばいてくれているお寺の方に申し訳ない気持ちでいっぱいですが。
また次回、リベンジします。
その後、お庭を見たり。
こっそり設置されている塔、秋穂先輩好きそうだなーとか思いながら。
尼崎を後にしたのでした。。。