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47都道府県を全制覇する旅

026_ 静岡県/たうんまりーなで、あったまりーな☆ 伊豆の上の方をうろちょろする旅(1泊2日)

さて。
静岡県2日目です。

しかし、昨日、結局12キロくらい歩いてた事になってて(万歩計情報)、すでにでろでろになっております。
仕方ないので、本日は当初の目的であった、佐野美術館のみ行く事にしました。
三島といえばの三島大社とかうなぎとか、すべてスルーです。


伊豆箱根鉄道に乗ります!


可愛い青い車体です!!


佐野美術館の最寄りは、三島田町駅です。

名刀は語る −磨きの文化−

今回は佐野美術館 企画展「名刀は語る −磨きの文化−」後期を見ました。
最終日に滑り込みです。

刀剣鑑賞ができる博物館、美術館で、よく耳にする佐野美術館ですが。
ざっと歴史を読むと、三島は刀剣どころというわけではなさそうです。
三島明神源頼朝の加護を受けて発展した、ということは有名)

ではなぜよく耳にするのかというと。
佐野美術館創立者の佐野隆一氏のコレクションなのだそうです。
特に日本刀コレクションは有名なのらしい。


ありがたやー


と、いうわけで。



やってきました!! 佐野美術館です!!!


朝一(開館10分前)、結構な人が待っていました。
蜻蛉さんのキーホルダーを下げた女子高校生くらいの年齢の子から、ダンディーなおじさまがたまで。

平安刀から江戸時代の刀まで!

まずは時代ごとの展示。
平安刀は、伯耆の安綱、古備前包平など。
特に古備前の刀が多かったです。

そして、鎌倉時代南北朝の御刀がたくさんあったのは嬉しかったですね。
特に長船派がたくさんあったのは嬉しい。
光忠はもちろん、兼光や長光、長義もありました。

特に長義の長巻直し刀はとてもよかったです。
大ぶりな切先に、乱れの多いのたれの刃文。
長巻を直したおかげか、銘も残っている、とのこと。

あと、南北朝の短刀もたくさんあって。
さすが、南北朝の流行りだけあって、短刀も身幅大きくてしっかりしてる。
粟田口吉光の短刀もあったけど、あれと比べたら、脇差って言われてもおかしくないくらいどっしりしてるのねー。

そして、「磨きの文化」

なぜ磨きの文化なのかと思ったら。
第2室では、鍛刀方法から研磨、柄巻きまで、作刀の技術について解説されてました。

ま、この辺は長船でも大変お世話になりましたので。
かるーく流す感じで(すみません)

と。
順番に見ていきましたら。


_人人人人人人人_
> 突然の財団 <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^ ̄


まさかのブレストシーブ様コーナーが突然現れました。
あー、そういえば、前期のどこかで、また2日間限定で乱藤四郎と小夜左文字を公開してたんだっけ。
(行かなかったけど)

展示はほぼ薬師寺と同じ内容でした。
あの内容を1/10くらいに縮小した感じ。

例の沸・匂出来クイズもありましたが。
そもそも刀が狭い空間にぎっちり置いてあったので。
やっぱり答え合わせが出来なかった……


keikenchi-map.hatenadiary.jp


圧巻の「蜻蛉切」、「太鼓鐘貞宗

そして。
最後の第3室。ここは徳川の古文書とともに「太鼓鐘貞宗」(や、その他の刀)、蜻蛉切 本歌、孔雀の羽が編み込まれた羽織などなど。
「注目の刀が語る」と題された展示でした。


ではまず、太鼓鐘貞宗について。

太鼓鐘貞宗相模国彦四郎貞宗作の短刀で「享保名物帳」に所載する。
太鼓鐘なる称号は、堺の商人:太鼓鐘家にあったことに由来する。

元和3年(1617)、卯月4日、徳川家康の十男:徳川頼宣が将軍秀忠に献上する。
徳川家康は慶長12年(1607)、愛妾:お勝ちの方が市姫を出産すると、直ちに奥州仙台城主:伊達政宗の嫡子:忠宗と婚約させた。しかし、4歳で幼死したので、慶長16年(1611)、家康は播州姫路城主:池田輝政の5歳になる娘を、お勝ちの方の養女として、忠宗と再び婚約させた。
元和3年(1617)12月13日、結婚式をあげ、同月18日、将軍秀忠へ御礼言上にいったとき、忠宗へ備前長光の刀と太鼓鐘貞宗の短刀を与えられた。
伊達家では大鼓磬貞宗とも書き、元禄9年(1696)正月28日、藩主:綱村の養子:吉村が、初めて将軍へお目見えのとき、綱村より譲られた。
綱村は享保5年(1720)、これを嫡子:勝代代丸(宗村)へ与えた。以後も同家に代々相伝された。
明治16年、仙台より東京の伊達邸へ移した。
昭和13年、国宝に指定、戦後、同家を出て重宝文化財に指定される。

拵は、柄白鮫に二匹獅子の出し目貫、鞘は黒塗り、小柄赤銅、小ガタナは駿河守盛道、下げ緒は紫色だった。

長さ8寸2分(24.85cm)、反り殆ど無し、平造、三つ棟(中筋広く)、小振りで長さの割にやや広く、反りなし。
鍛えは、板目肌流れ、地沸微塵に厚くつき、地斑調の肌合い少しく交じり、地景よく入る。
刃文は、小のたれを主調に僅かに小互の目を交え、表腰に角がかるのたれあり、匂深くよく沸づき、砂流し頻りにかかり、金筋入り、湯走り交じり、匂口明るく冴える。
帽子は、小丸に長く返る。表は太い腰樋中に素剣を浮彫、裏も太い腰樋がありその中に素剣を浮彫にする。
茎は生ぶ(舟形)、棟は角で刃方は小肉付き、鑢目切り、目釘孔四(内二つ埋)。

太鼓鐘貞宗貞宗作中にあり最も小振りの短刀で、地刃には沸出来の限りない変化を見せて見事であり、貞宗の真骨頂を遺憾なく発揮している。
相模国彦四郎貞宗は、正宗の養子で弟子と伝える鍛冶で、江義弘同様に未だ有銘作はみない。
師風をよく継承した作域であるが、一般に、正宗に比して地刃に穏秀の感が窺われ、姿態が大柄であるところに正宗より製作年代が下がることが示され、また多くのものに刀身彫刻が見られる。

(参考)→太鼓鐘貞宗 | 日本刀や刀剣の買取なら専門店つるぎの屋

同じく展示されていた「御腰物元帳」には「脇差」の記述があったこともあり。
ずーっと脇差だと思っていたのですが。
実は短刀なんですね。
ダイナミックな互の目の刃文が、とても目を引きます。


そして。
本歌 蜻蛉切について。

蜻蛉切徳川家康の臣:本多平八郎忠勝の名槍の異名で、蜻蛉が飛んできて、槍の刃に当たったところ、真っ二つに切れたところから命名された。
本多平八郎忠勝は三河の人で、代々徳川氏に仕え、祖父の忠豊、父の忠高、叔父の忠真、いずれも徳川家のために討死するという武人の家柄である。
忠勝は14歳の時からたびたびの戦いに参加して武功を立て、家康の四天王の一人として剛勇の名をはせた。

平三角造の大笹補、長さ1尺4寸4分5厘(43.7cm)、茎の長さ1尺8寸3分5厘(55.6cm)、元幅8分(55.6cm)、重ね3分5厘(1cm)広いところで幅1寸2分5厘、首は六角、まことに均整のとれた美しい姿形をしめす。
鍛えは、板目、柾かかりよくつみ、焼刃は互の目のたれ、沸つき砂がしかかり、平に蓮台、梵字の彫りがあり、その上に太い樋を掻き、その中に三鈷剣と梵字を彫ってある。上部の梵字三字は上から、「カ」は地蔵菩薩、「キリーク」は阿弥陀如来、「サ」は聖観音菩薩となり、下部の長梵字「カンマン」は不動明王をあらわしている。
反対面には、鎬筋を挟んで二組の細い二筋樋がある。
鑢は切、目釘孔二つ、藤原正真作と明快な五字銘を切っている。
目方は133匁弱(498g)、比較的軽いのは太い樋を掻いている故という。

作者正真は、室町時代三河国の鍛冶で三河文殊と称せられるが、ときを同じくして大和国にも同名の刀工がおり、両者の銘振りに多少の異同が認められるけれども、作風からみて同一人か、あるいはごく近い関係の刀工といわれる。
同名異工として、村正で有名な伊勢国千子派にも千子正真がおり、混同されがちであるが蜻蛉切の作者とはしては無関係のようにおもわれる。

(参考)→蜻蛉切 | 日本刀や刀剣の買取なら専門店つるぎの屋

ぎねさんや号おじさんの時もそうだったけど。
槍というのは、基本三角形の形なんですよね。
この蜻蛉切も、よく写真とかで見る方向がしずくのような形をしているからそんなイメージないけど、三角形なのですよね。
今回の展示は鏡が置いてあって、後ろも見られるようになっていたので、
「あー、三角形だー」
というのがわかりました!

彫り物のない面は刃文が見えて、こちらもダイナミックな、なみなみ互の目でした!


あと、いつかの長船で見た、もふもふ尻鞘もいましたよー!

コラボの現場を垣間見る

スタンプラリー期間には間に合いませんでしたが。
入口にイラストが飾ってあったので、写真を撮りました。

あと、図録も買ったよ!

そして、スーパーでハッスルするさとり

何気に2周見たので(建物の構造上、2周目が可能)
三島田町駅まで戻った時には、疲れ果てていました。。。

が。
新幹線まではちょいっと時間がある。
ので、三島田町駅の隣にあったスーパーで、静岡っぽいものを探してみました。
何気に、干しエビが普段使いされてるのねー、静岡県



カップラーメン売り場で見つけました


しぞーかおでん。まだ開けてないけど、楽しみ!


静岡県民御用達「のっぽ」。ミルクフランス的なコッペパン


なぜか売っていたので、買ってみた


ゆで落花生。初めて見たので買って見た。けど、私は乾燥のままのが好きかなー


これは非常に美味しかったです! 小エビと菜っ葉の混ぜご飯!


一応、三島だしね


これは三島駅の新幹線改札内売店で買いました。とっても美味しい、イタリアンロール!


美味しいものを大量に仕入れて、三島を後にしたのでした。。。



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